短波ラジオ、って聞いたことはないですか。
私は、15くらいの時、どーうしても、外国に行きたかった。
具体的にどこというのではなくて、とにかく、何か知らない「遠く」の「向こう」に
行ってみたかっただけなのだけれど。
でも、その年齢では自分ひとりではどうにもならない。学校もあるし、お金もないし。
(数年後、高校生になって、やっと、「遠く」にゆくことになる。アラスカ。世界の果てっぷりには申し分ない。)
だから代わりに、ラジオを聞くことにした。
でも、「お目当て」は音楽じゃなくて。
「知らない外国」からの放送を受信するのに、それはもう夢中でした。
AMラジオでも、放送域を外れたところで、かろうじて短波の放送が受信できる。
スピーカーに耳をくっつけると、雑音の中に、かすかに人の声が聞こえる。
でも、何がなにやらよくわからない。
テレビみたいに、番組表が新聞に載るわけでもなし。
アンテナをいっぱいに伸ばしてみたり、窓を開けてみたり、寒空の中ベランダに出てみたり。
そうしたら、(机の下にもぐったり、ごそごそしている娘を不憫に思ったのか)父が、どこからか短波ラジオを買ってきてくれた。
その時代でも、すでに時代遅れの感があるそれは、かえって、なかなか高価だったはず。でもそのおかげで、私の短波ラジオ生活は格段に快適になった。
(あれはどこにしまったのかな。ある意味、父の形見だ。)
いちばんのお気に入りは、「ロシアの声」。モスクワからの放送なのだけれど、シベリヤにも中継局があるのか、北海道ではなかなかクリアに聞こえた。
ニュースの合間に、ひとびとの生活を紹介する短いコーナーがあって、小説の中でしか知らない、サモワールで入れるお茶や、クレムリンのたまねぎ屋根や、ピオネール・キャンプが、ぐっと近くなった気がして、うれしくてくらくらした。
何より素敵だったのは。
モスクワの放送局に、「何月何日何時、周波数幾つで受信しました」との報告をすると、返事がもらえたこと。
クリスマスのカード(それでロシア正教のクリスマスは1月だということを知る)や、放送局のポストカード。それには、ていねいに手書きのメッセージが添えられていて、さらに、色とりどりの美しい使用済みの切手が、同封してあった。
そういうつつましやかで暖かい感じに満ち満ちていたその封筒は、宝物だったし、断然、私の外界への「窓」だった。
あれから、もうずいぶん経ったけど。
今でも、ワールドバンドの短波ラジオを、長い旅や引越しの荷物に、必ず入れる。
インターネットへの接続も必ず確保するのだけれど、電話線を引くのに意外と時間がかかったり(プラハのアパートでは1ヶ月以上かかった、しかも壁に大穴を空ける謎の工事も伴って)、電力が確保できないときもあるし。
それになにより、知らない場所で知らない言語の放送を聞きながら、時々かかる音楽に、お、いいなあ、なんて共感したりするのが、いいのです。
あのころに、ずっと自分の深いところに持っていようと決めたことを、再確認するみたいで。
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